【代表の独り言11月号(酒と小説と音楽と)】
私が学生のころだから大昔の話だが、応仁の乱よりはずっと後だったと思う。「今夜も小説を肴にウィスキーを飲む」というCMがあった。こんなしっとりとした飲み方が大人の酒なのだと、いたく感銘したものだ。「小節を数えながらウィスキーを飲む」とか「小説を魚に読ませながら鼻毛を抜く」とかいった下世話な作業は違うのだ。CM通りに大人っぽい飲み方をするなら、ウィスキーはトリスやレッドではなくダルマ(オールドの愛称)あたりが似合う。当時学生にとってダルマは高嶺の花だったが、今でもスーパーでホワイトホースやカティーサークの2倍ぐらいするから年金生活者にとっても高嶺の花だ。結局財布と相談して角瓶に落ち着いた。小説は何にするか。「天才バカボン」では様にならない。「今夜もバカボンを肴…」では格好がつかない。背伸びして安部公房を漢字抜きでひらがなだけを読んだはずだ。たしか「砂の女」だったと思う(漢字抜きでタイトルは「の」だった。)読後、突然思い立って何の準備もなく在来線を乗り継いで鳥取砂丘までいって砂に埋まって野宿したことを覚えている。砂丘は夜、虫がいっぱい這い出してくるので全く眠れない。砂丘での野宿はお奨めしない。
さて、大人の飲み方を実践してみると大きな問題があることが判明した。小説よりも本物の肴が欲しくなるのは当然だが、酔ってしまうと小説の内容が頭に残らないのだ。目では字面(じづら)を追っているのだが、小説のストーリーを頭の中で勝手に展開させて、別の物語を創造していることもある。本を開いているのに自分の作った世界に没入しているのだ。下手な小説よりずっと面白いストーリーのこともあるのだが、なぜかその面白い話を覚えていないのが残念だ。最悪の事態は100ページほど読み進めているのに、あくる日その内容を忘れていることだ。また100ページもどって読み始めるしかない。あくる日も飲んでいればその次の日にまた読み直すことになる。速く読み終えたいならシラフで読むにかぎる。
その後も数十年、飲みながらの読書は続けているが、最近は読んだ内容を忘れないように以下気を付けている。
1) 読む前に本が上下逆さまになっていないことを確認する。
2) 本なのか冷蔵庫の取扱い説明書なのか確認する。冷蔵庫の取説なら壊れたときに読めばよい。
3) 自分には難しいと思う本(「相対性理論が導く拡張する宇宙に飛び出すトノサマバッタ」など)は最初からウィスキーの肴にしない。
4) 出来るだけ分厚い本を数冊選んで枕にする(最初から読むのを諦める)。
小説家には酒豪が多いが、書く方にとって酔いは関係ないようだ。書いている内容を忘れてもあくる日目が覚めたら文章として残っているからだ。もちろん飲みながら書いた作品に出来不出来はあるだろうが、概ね酔ったときの方が出来は良いらしい。そもそも酒豪の作家はシラフでは書かない(書けない)のだ。ちなみにこの文章は飲みながら書いているが、酒が足りないのか駄文である。音楽家でも酒豪の作品には名曲が多い。ベートーヴェンの父親は有名な酒乱だし、母親も酒屋の娘だったから、家系としても恵まれている。彼は毎日、昼食時にワインを1リットル飲んで作曲していたらしい。演奏するのも飲んでからの方が名演になるに違いない。来年の定演は全員ポケット瓶を傍らに置いて、悲愴を最後まで何人演奏できるか挑戦してみるのも一興だが、再来年はフィリアホール出入り禁止だろう。