【代表の独り言】2024 7-10 ギリシャ編

【代表の独り言 ‘24年10月号】(ギリシャその4)

さすがにギリシャの話題を4回もやっているとアテネフィルのHPかと思われるので今回で終了するが、最後にギリシャ料理に触れておきたい。日本人の口に合うのは新鮮な海鮮料理だ。カラマリ(イカのから揚げ)や塩コショウとオリーブオイルをふんだんにかけてたべる焼き魚は最高だが、基本的に調味料は塩コショウとオリーブオイルだけだから、すぐに飽きてしまう。日本人の駐在員はレストランにでも醤油を持参するのが常だ。ギリシャ人には申し訳ないが、かれらの料理の評価基準は、熱いか冷たいか、少ないか多いか、だけだと思う。熱い料理がどっさり出てきたら大喜びだが、日本料理のように小皿に盛った冷菜などは人間の食べ物とは思わないだろう。だからギリシャ人を接待するのは意外に簡単で、お好み焼きなんかをいっぱい焼いて出してやれば大歓迎される。ギリシャ人に限らず欧米人にはお好み焼きが好評で、自分で焼いてコテでひっくり返すところで拍手が来るのは間違いない。

さて前回ウィーンフィル公演の当日、雲行きが怪しくなってきたところで話が終わったが、心配した通り小雨ではあるが降り始めた。雨が降らないギリシャの夏なのにこの年初めての雨だ。野球なら十分試合が出来る程度の雨だから、無理してでもやって欲しかったが、早々に中止が決まってしまった。さすがに超一級品の楽器を濡らすわけには行かないのだろう。私でも演奏は断るところだから無理もない。(もちろんウィーンフィルと共演する予定はなかった。)さんざんウィーンフィルのネタで引っ張っておいて結局中止なのかと拍子抜けされた方もおられたと思うが、多分こんなオチなのだろうとお見通しの方もおられたと思う。でも大丈夫、代わりのネタを用意している。

ヨーロッパ・ユース・オーケストラという小学生から高校生ぐらいの年代を集めたオケがある。このオケをアシュケナージが率いて同じイロディオにやってきた。「ウィーンフィルの悲劇」の翌年のことだったと記憶している。確か休日だったと思うが家族3人で聴きに行ったのを覚えている。今回は雨が降らないように前日から家族全員でテルテル坊主をいっぱいぶら下げておいた。近所の住人に見られたら変なオカルトの儀式と思われた可能性もあるが、その後苦情も称賛も来ていない。テル坊のおかげで無事にコンサート開催に漕ぎつけたが、アテネだからこれが当然なのだ。

曲目はマーラーの交響曲1番「阪神」、失礼「巨人」だった。アシュケナージの指揮が素晴らしかった。技量に差のある子供たちをひとつにまとめ上げて、全員が楽しく演奏できる雰囲気作りが素晴らしかった。おそらく日本のユースオケの方か小学生クラスのレベルは高いだろうから、技術的な差がなく均整のとれた演奏になったのかも知れないが、この演奏は全員の熱い感情を引き出したアシュケナージの指揮のお蔭で、技量のバラつきをものともしない、ひとまとまりの音の爆発を感じさせた。演奏後の子供たちの笑顔とアシュケナージの満足そうな微笑みが忘れられない。

正直なところ日本の幼年期からの英才教育なら、小学生レベルでも大人の演奏について行けるだけの技量は身につくと思う。同じマーラーでももっと完成度の高い演奏が可能だったかもしれない。でもそこに大曲を演奏した後の満足感ある笑顔はあるだろうか。厳しい指導のもとで型どおりの演奏が出来て、ほっとした安心感はあっても、楽しい演奏ができたという喜びがあるだろうか。アシュケナージのヨーロッパ・ユースは、個性も技量もバラバラの子供たちを指揮者の熱量で一つにまとめ上げて、マーラーの神髄に迫る芸術にまとめ上げたのだと思う。完成度ではなく個々の熱意の集合が感動を呼ぶのではないか。我が青葉フィルはこのヨーロッパ・ユースの在り方をひとつの目標にすべきではないかと振り返っている。我が楽団も、年齢や職業それに技量も様々な奏者の集まりながら、各人が努力を積み重ねつつ、毎回の合奏では和を大切に楽しく演奏する。このことが、定演でまとまった熱意としてお客様に伝わっているのではないだろうか。さらに我々はアシュケナージに優るときも劣るときもある角先生に、忍耐強く指導してもらっている。我々のお手本になるのはウィーンフィルではなく、デコボコが一つにまとまったヨーロッパ・ユースではないだろうか。ウィーンフィルは雨で流れたけど、アシュケナージに良い演奏を聴かせてもらった。


【代表の独り言 ‘24年9月号】(ギリシャその3)

ギリシャ人は「知らない」と言わない、というのが5年間の駐在生活で得た教訓だ。何か質問すると必ずそれらしい回答をする。私なんかは「知らない」と言っておけば余計な質問をされないので楽だと思うが、彼らは知らないと言うことが恥と思っているのではないか。典型的なのが道を尋ねたときの反応だ。ある時家族で小さな島に旅行した。ホテルの近所で野良の子猫が擦り寄ってきた。日本から連れて行った犬のバースが寿命で亡くなったところだったので、妻と娘がこの仔を飼いたいという。犬派の私としては渋々だったが、ネコはトラの仲間だと説得されて已む無く同意した。連れて帰るにはケージがいるので、ペットショップを探すことになった。小さい街だから徒歩圏内に店があると思って、街の人に聞いてみた。「それなら突き当りを右に曲がったところにある。」と丁寧に教えてくれたが、行ってみても見当たらない。つづいて2,3人に聞いたが、教えてくれたところに店は無い。うろうろしていたら交番があったのでお巡りさんに聞いたら、自信をもって「アイ・ドント・ノー」と答えてくれた。お巡りさんは怪しい外人と会話したくなかったのかもしれない。ちなみに拾ったネコは日本に連れて帰った。

さて、編集者からウィーンフィルの話題に早く戻ってほしいとせかされているので、先月号の先を急ごう。事務所移転のめどが立って、社員全員の意見を取り入れて事務所のレイアウトや什器備品の選定を進めた。私と社員の意見がはっきり分かれたのは室内の壁の色だ。社長の判断として押付けることもできたが、和を尊ぶ者としてそれは避けたい。私は元気が出る明るい色として黄色を主張した。決して阪神のチームカラーだとは言わなかったが、社員は落ち着いて仕事が出来るグレーか水色が良いと反対に回った。最終的に玄関のエントランスルームを黄色にして、執務室を水色にすることで妥協した。ギリシャ人の趣味は(一部の)日本人より地味だと思った。
事務所が完成し引っ越しが終わったとき、社内でパーティーをやりたいと言う声が上がった。できたら家族も呼びたいと言う。どうやら新事務所を家族に自慢したいようだ。これまで経費節減の連続で寂しい思いをしていた社員が、家族を含め新事務所に希望と誇りを持ってくれるのは嬉しいことだ。私も大賛成で家族を含めた移転祝いを実行した。赴任して全員の笑顔がみられたのはこれが初めてだった。ひとつ良いことをしたなと心の中で小さなガッツポーズだ。

これと同時に社有車を買い替えた。他社並みにベンツにしたのだ。客先訪問でも来客送迎でも社有車は目に見える格付けとなる。これらを契機に俄然社員のやる気が違ってきた。積極的に取引先を訪問するし、お客さんを事務所に呼んで商談もする。おかげでジワジワと業績回復が数字を伴ってあらわれた。さらに大型船舶の成約もあって、赴任2年目でなんと7年ぶりの単年度黒字、5年がかりで累損を一掃できた。最初の社長の給料未払いの状況に比べたら上出来だろう。

ウィーンフィルを野外音楽堂イロディオで聴こうと思ったのは、会社運営が落ち着いてからの話だ。イロディオはかつて小澤征爾もタクトを振ったことがあり、野外なのに響きが良いと評価したらしい。(https://architecture-tour.com/world/greece/acropolis-of-athens/odeon-of-herodes-atticus/ 座席に置いてある黒いものがクッションだ)壁や天井がないのはもちろん反響板も置いていないがよく響くことは間違いない。
チケットは簡単に手に入った。ウィーンフィルでも日本ほど貴重ではないのかもしれない。当日仕事帰りにコンサートに行く予定にしていたが、昼過ぎからどうも雲行きが怪しくなってきた。雨がないアテネの夏だから中止になるはずはないと高をくくっていたが、夕方になってポツポツと雨粒が落ち始めたではないか。
紙面の都合で続きは来月号で。


【代表の独り言 ‘24年8月号】(ギリシャその2)

(先月号の続き)
ギリシャに赴任する際、ヴァイオリンは当然として、ピアノと飼っていた犬
も連れて行った。犬の名前はバースと言う。史上最強の助っ人といわれた阪神
のバースの名前を頂戴したものだ。その当時から「ちょっとだけ阪神ファン」
だった。会社の規定で転勤荷物は一定容量以内なら会社負担となる。ピアノは
小型のアップライトなので規定内だったが、バースは梱包できないので自費で
赴任となる。到着順は私が最初でバースが2番目、家族が最後だった。到着し
たときケージに敷いてあったのが英字新聞だったので、ロンドン経由で豪遊し
てきたのだろう。片道なんと26万円かかったので犬としては贅沢な旅行だ。現
地職員からはピアノと犬を連れてきた日本人は初めて見たと驚かれたが、この
程度で驚いていては今後5年間、私と一緒に仕事は出来ないのだ。

前回、当座の運転資金を確保したところまで書いたが、同時にやるべき仕事
は会社経理の透明化だった。会社の資産状況、資金繰り等を把握しないと会社
再建は始まらない。当時経理を担当していたのは70歳を過ぎた怪しげな嘱託の
老人だった。定年後十数年経理担当として居座り、他社の経理も兼務していて
相当稼いでいるらしい。初対面で挨拶もしない。財務内容を聞いてもまともに
答えない。私のことなんか二回りも年下の何もできない若造と踏んでの振舞い
なのだろう。なんでクビにしなかったのか不思議だったが、歴代社長の引継ぎ
として、この老人に退職を迫っても「過去の税務上の違反を暴いてやる」と言
われて、どうしても辞めさせられないとのことだった。会社を脅迫するような
こんな奴をのさばらせておく訳には行かない。違法な税務処理をしていたなら
この老人が張本人のはずだし、会計監査も通らないはずだ。そこで監査法人だ
ったデロイトに相談に行った。

相談に乗ってくれたのは上級職の会計士で、愛想の良いセールスマンのよう
な感じのオジサンだ。彼が知る限り過去に不正処理はないし、それ以前にあっ
たとしても時効だから何も心配することはないという。それなら安心して怪し
い老人をクビにできる。あとは後任の経理を探すことになるが、誰か適任者を
紹介してくれないか頼んだところ、セールスマン会計士らしくウチでやると提
案してきた。会社対会社の契約で当時流行りの経理のアウトソーシングという
形だ。同じ会計法人が経理も監査も兼務して問題ないのかと思ったが、部署が
違うので全く問題ないと自信を持って言うので頼むことにした。連綿と続いた
老人問題と経理処理が一気に片付いたが、なんかセールスマン会計士に上手く
乗せられた感がないでもない。さてこの一件で驚いたのは他の社員である。赴
任早々一番扱いが難しいと思われた老人を解雇したのだから、次は自分かと心
配するのも無理はないが、大丈夫だ。和を大切にする社員なら一緒に会社再建
に力を貸してもらおう。

老人の解雇と並行して動いていたのは事務所の移転である。浸水する社長室
のある事務所から来客を呼べるまともな所への早急な移転である。幸い近所で
大通りに面した角地に建築中のビルを見つけた。半年後完成予定でワンフロア
借り切ってもちょうど良いスペースだし、家賃も払えそうな金額だ。新築なの
で事務所のレイアウトは自分たちで自由に決められるのがありがたい。社員の
通勤距離がほとんど変わらないから文句も出ない。ここに決めた。早速社員全
員で、壁の色を含めたレイアウトの相談、備品の手配が始まった。この手の話
は仕事よりも熱が入るものだ。

まだ野外音楽堂でのウィーンフィルの話に到着していないが、続きは次回に
したい。


【代表の独り言 ‘24年7月号】(ギリシャその1)

先月皇室のプリンセスがギリシャを訪問したニュースを何回か視聴した。知っている場所がいくつも出てきたので懐かしく思い、今回はギリシャの話題にしようと思う。

パルテノン神殿が聳え立つアクロポリスの丘のふもとにイロディオという野外音楽堂がある。約2千年前に建造されたものだが、修復されて今でも夏場は各国の一流オーケストラを招いてコンサートが行われる。ギリシャの夏、5月から9月ぐらいまでは雨が降らない。夕立もない。だから夏場だけ野外でのコンサートが成立するのだ。もちろん何年かに一度ぐらい雨で中止になることもあるが、宝くじに当たるぐらいの確率だ。真夏の野外劇場だけに、日中の炎天下で大理石の座席はフライパンのように熱くなる。演奏会は日が暮れてからだが、夜でも気温は30度を超えるので、直接座るとお尻がウェルダンステーキになる。それを避けるため薄いクッションが置かれているが、それでもミディアムレアになったような感覚だ。

二十数年前、私はこの音楽堂で開催されるウィーンフィルのチケットを予約していた。ヨーロッパのオケは団員がエーゲ海の島々で長期の夏季休暇を取ることが多く、たまに予定を合わせてアテネで小遣い稼ぎの演奏会を催すと聞いている。それもあるのかチケット代は結構安い。ではなんで私がアテネのウィーンフィルを観に行くことになったのかを先に説明しておいた方が良いだろう。

当時私は某総合商社の駐在員としてアテネに駐在していた。法的にはギリシャの独立法人だったので、立場はギリシャ会社の社長である。ただし日本人は私ひとりで、全従業員あわせても十人に満たない零細企業だ。事務所は街はずれの古いマンションを改造したもので、エレベーターの扉が開くと目の前に社員の仕事風景が広がる。社長室は広さ2畳ほどのベランダに壁と屋根をしつらえたバラック同然の造りだ。いくら雨が降らないアテネとは言え、夏が去るとたまに大雨も降る。実際社長室が床上浸水したこともあった。以前はアテネの中心街に事務所を構えていたが、経費を切り詰めるため引っ越してきたのだと言う。
さらに驚いたのは、経営状態が債務超過ギリギリの破綻寸前の会社で、赴任初日に前任の社長から言われたのは「今月は現金がないのであなたの給料払えないけど、一カ月我慢できる?」というものだった。厳しいとは聞いていたがここまでとは思っていなかった。ゼロからではなく、まさにどん底からのスタートで、それ以上悪いのは倒産しかないという、もう笑うしかないヤケクソの門出であった。

着任早々まずやることは当座の運転資金を確保することだ。最低来月からは自分の給料も欲しい。独立法人なので本社に増資してもらうのが手っ取り早いが、すでに2回増資していて現金は使い果たしてしまったらしい。これ以上の増資は認められないという。そうなるとどこかから借金するしかないが、普通の金融機関に融資を頼むと担保を要求される。そんな資産はない。そこで本社から無担保の米ドル融資を受けることにしたが、金利はなんと11%だ。返済の目処は全くないが資金調達の方策はこれしかない。運転資金は最低必要だが、加えて床上浸水する社長室付事務所からお客さんを呼べる普通のオフィスビルに移転したい。さらに現有の年季の入った社有車も他社並みにベンツに変えたい。どうせ借りるならと無理を通して事務所移転と社有車買い替え費用も上乗せして大金を手にすることが出来た。

早くウィーンフィルのコンサートに戻りたいが、今月はここまでにしておく。こんな酷い話があるはずはないと思われるかも知れないが、実際にあった話を忠実に書き記したものだ。当時の社員、関係者はまだ存命中のため商社の実名は伏せてある。なお、冒頭の野外音楽堂の呼び名は何通りもあるが、ここでは現地で呼ばれていたイロディオとしておこう。それでは続きは来月号で。