【代表の独り言12月号(1年を振り返って)】
毎月何を書こうか迷っているが、幸い年末なので青葉フィルとしてこの1年何があったのかを回想してみたい。
まずは7月に例年通り定期演奏会が無事開催できたが、今年は元旦の能登半島地震で被害のあった方、とくに音楽関係者への支援という形で、特別の演奏会になった。結果として、被害が甚大であり、また音楽に対する熱い思い入れのある石川県立輪島高校の音楽関係者の方への義援金をお送り出来たことが大きかった。演奏会には輪島高校の校長先生にも来場頂いたし、義援金は同校の吹奏楽部、筝曲部、和太鼓部にて活用頂いているようだ。会計処理から私が外されたことで、義援金が飲み代に化けることがなかったのも幸いだった。あとは来春同校の卒業生が進学なり就職で青葉区と繋がりができて、当団に入団してくれることを期待したい。
もう一つの話題として4月からホームページに「代表の独り言」欄が出来たことだ。代表が無い知恵を絞り、寸暇を惜しんで毎月力作を書いている甲斐があって、1回も休まず継続できていることが驚きだ(驚いているのは代表ひとりだ)。残念ながら団員からは不人気で、私が知る限り読者は編集者だけだ。それも公序良俗に反するような怪しい文言が含まれていないかを確認するだけの作業で、興味を持って読んでいる訳ではなさそうだ。当初は団員の好評を得て、口コミで外部にも読者が広がり、これがきっかけで入団希望者が殺到するのではないかと心配して、食事も喉を通らずツマミと酒だけの生活を強いられていたのに、なぜこんなに不評なのか。思い当たる理由は以下の点である。
1) 文章が哲学的で難解すぎて一般人にはついて行けない。
2) 筆者のように楽器の演奏が下手になるのではと心配で敢えて読まない。
3) 時間の無駄。スーパーのチラシを読んでいる方が価値がある。
4) 猫に見せたら嘔吐した。犬に見せたら失禁した。
5) そもそもコラムの存在を知らない。
筆者の立場からすると1と5が理由ならショックは少ないが、3の可能性が一番説得力がありそうだ。しかしスーパーのチラシより価値のあるものは、どう頑張っても私には書けない。逆に読者がいないということは、こんな無駄な文章をホームページに載せるなという批判もないのだから、今後もせっせと書き続けることにしたい。
楽団以外では私事になるが、視力が落ちて右目では楽譜が見えなくなって来た。以前から緑内障と言われていて視野の四分の一が欠けている。だから四拍子の楽譜が三拍子に見える。たまに私ひとりが先に演奏を終わっているのはこのせいなのだ。それに加えて白内障の症状が現れた。強い光が当たると目の前が真っ白になる。眼科医の見立てでは、水晶体の中央部が白濁しているので見えづらいが、重症ではない、希望するなら手術してやっても良い、とのことだ。正直右目だけでは本も読めないし、楽譜も読めない。つまり以前の半分の視力で練習していた訳だから、上達するのに2倍の時間を要していたのだ。もし両目で楽譜が読めるようになって、倍速で上達すれば、ウィーンフィルから誘いがかからないとも限らない。(チケット購入の誘い)。
私の気持ちは手術に傾いている。問題は手術のタイミングだ。当然ながら7月の定演前に終えている必要はある。それより来春のタイガースの開幕に間に合わせることは絶対条件だ。うまく行けば片目で見て3-0でリードしていた試合が、両目でみたら6-0になっているかも知れない(失点が倍になるとは考えないようにしている)。それなら早いに越したことはない。来年早々にでも医者に手術をお願いしよう。唯一心配なのは、片目で見て8分音符と思っていたものが、両目で16分音符に見えた場合、また一人だけ先に演奏を終わってしまうことになりそうだ。そうなっても団員の皆さんには両目、ではなく大目に見て頂きたい。
【代表の独り言11月号(酒と小説と音楽と)】
私が学生のころだから大昔の話だが、応仁の乱よりはずっと後だったと思う。「今夜も小説を肴にウィスキーを飲む」というCMがあった。こんなしっとりとした飲み方が大人の酒なのだと、いたく感銘したものだ。「小節を数えながらウィスキーを飲む」とか「小説を魚に読ませながら鼻毛を抜く」とかいった下世話な作業は違うのだ。CM通りに大人っぽい飲み方をするなら、ウィスキーはトリスやレッドではなくダルマ(オールドの愛称)あたりが似合う。当時学生にとってダルマは高嶺の花だったが、今でもスーパーでホワイトホースやカティーサークの2倍ぐらいするから年金生活者にとっても高嶺の花だ。結局財布と相談して角瓶に落ち着いた。小説は何にするか。「天才バカボン」では様にならない。「今夜もバカボンを肴…」では格好がつかない。背伸びして安部公房を漢字抜きでひらがなだけを読んだはずだ。たしか「砂の女」だったと思う(漢字抜きでタイトルは「の」だった。)読後、突然思い立って何の準備もなく在来線を乗り継いで鳥取砂丘までいって砂に埋まって野宿したことを覚えている。砂丘は夜、虫がいっぱい這い出してくるので全く眠れない。砂丘での野宿はお奨めしない。
さて、大人の飲み方を実践してみると大きな問題があることが判明した。小説よりも本物の肴が欲しくなるのは当然だが、酔ってしまうと小説の内容が頭に残らないのだ。目では字面(じづら)を追っているのだが、小説のストーリーを頭の中で勝手に展開させて、別の物語を創造していることもある。本を開いているのに自分の作った世界に没入しているのだ。下手な小説よりずっと面白いストーリーのこともあるのだが、なぜかその面白い話を覚えていないのが残念だ。最悪の事態は100ページほど読み進めているのに、あくる日その内容を忘れていることだ。また100ページもどって読み始めるしかない。あくる日も飲んでいればその次の日にまた読み直すことになる。速く読み終えたいならシラフで読むにかぎる。
その後も数十年、飲みながらの読書は続けているが、最近は読んだ内容を忘れないように以下気を付けている。
1) 読む前に本が上下逆さまになっていないことを確認する。
2) 本なのか冷蔵庫の取扱い説明書なのか確認する。冷蔵庫の取説なら壊れたときに読めばよい。
3) 自分には難しいと思う本(「相対性理論が導く拡張する宇宙に飛び出すトノサマバッタ」など)は最初からウィスキーの肴にしない。
4) 出来るだけ分厚い本を数冊選んで枕にする(最初から読むのを諦める)。
小説家には酒豪が多いが、書く方にとって酔いは関係ないようだ。書いている内容を忘れてもあくる日目が覚めたら文章として残っているからだ。もちろん飲みながら書いた作品に出来不出来はあるだろうが、概ね酔ったときの方が出来は良いらしい。そもそも酒豪の作家はシラフでは書かない(書けない)のだ。ちなみにこの文章は飲みながら書いているが、酒が足りないのか駄文である。音楽家でも酒豪の作品には名曲が多い。ベートーヴェンの父親は有名な酒乱だし、母親も酒屋の娘だったから、家系としても恵まれている。彼は毎日、昼食時にワインを1リットル飲んで作曲していたらしい。演奏するのも飲んでからの方が名演になるに違いない。来年の定演は全員ポケット瓶を傍らに置いて、悲愴を最後まで何人演奏できるか挑戦してみるのも一興だが、再来年はフィリアホール出入り禁止だろう。